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超フォトブック散歩

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写真撮影・カメラ・レンズ・そして散歩をしようかな!

-日本最後の仇討ち伝説-

-一本杉の仇討ち伝説-

明治13年、
臼井六郎が果たした
「最後の仇討ち」か?、
と呼ばれる事件が、
ドラマ「遺恨あり」
で描かれている。

中仙道の与野宿のはずれ、
浦和宿に入ったところに
一本杉と呼ばれる
場所がある。
(現在のさいたま市)

実は、ここが、
日本歴史上最後の仇討ちが、
あったところである。

1.一本杉 (現在の一本杉)
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2.ひっそり建つ石碑
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丸亀藩浪人河西祐之助と
水戸藩士宮本鹿太郎の
仇討ちの現場

3.「一本杉」と刻まれた石碑
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4.庚申塔
ここを右に行けば、
与野円乗院に。
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5.廓信寺
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河西は、
一本杉近くの万福寺
(現在はない)に葬られたが、
今はこの廓信寺(かくしんじ)の
境内に静かに眠っている。

6.廓信寺(かくしんじ)本堂
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7.廓信寺仁王門
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ここからは、
長文となります。
ご興味のある方は
どうぞ。

文久4年(1864年)1月23日の早朝に
日本最後の仇討ち、
世に言う 「一本杉の仇討ち」 は、
起こった。


水戸藩士宮本佐一郎と
讃岐丸亀浪人河西祐之助は、
4年前の万延元年(1860年)
常陸国鹿島津の沖合いの船中で
お互い酒を飲んでの口論の上、
斬り合いとなり
宮本は死亡、
河西は重傷を負った。

二人は江戸の千葉周作道場で、
お互い稽古を積んだ仲間であり、
酒好きもあり、仲が良かったのだが、
ささいなことから、刀を振り回しての
喧嘩となった。

河西は
知り合いの和尚がいる不動岡の総願寺で
傷をいやし、自分が斬った3人の菩提を
終生弔うために僧侶になることを誓っていた。

そう、
河西は故郷の近くの金比羅琴平神社の境内で
女性の参拝客をからかう2人の博労を
斬り捨てた罪で、浪人していたのだ。
(ここはスピリチュアルな推測)

そして、その日は、
不動岡(現在の埼玉県加須市)の
真言宗智山派総願寺から
与野(さいたま市)安養院西念寺円乗院に
立ち寄り、江戸愛宕の
真言宗智山派別院真福寺を経由して
京都東山七条にある
総本山智積院を目指していた。
ここで修行をするつもりであった。
(ここもスピリチュアルな推測)

殺された宮本佐一郎の息子鹿太郎が
仇討ち免許状を持ち、
佐一郎の弟、その息子2人が
加勢した1対4の決闘であったようだ。
しかも河西は、腕に差のある鹿太郎に
無抵抗であったと考えられる。
僧形に身を換えた祐之助は
無刀であった。

実は、
和歌山県と大阪府の県境に
境橋というところがある。
ここも日本最後のあだ討ち場として
言い伝えられている。
しかしそれは、
文久3年(1863年)のことだ。

もうひとつ、
「高野の仇討ち」事件が
明治4年(1871年)に起こった。
殺人罪で死刑判決、
後に恩赦になった。

正式な仇討ち免許状を持ち
鹿太郎以下が
水戸藩に復帰していることから
当時の考えうる正当な仇討ちで、
日本最後の仇討ちは
忘れられた
「一本杉の仇討ち」
と考える。

近代国家への歩みの中で
新政府から仇討ち禁止令が
発布されたのは、
明治6年(1873年)のこと。

明治13年(1880年)に
仇討ちとして騒がれた事件が
この臼井六郎事件である。

これは、仇討ち禁止令後のこと。
この事件も、殺人罪が適用され
死刑が確定したが、
その後恩赦された。

仇討ちか?殺人罪か?
仇討ち免許状は?
真実は?、
2011年2月26日(土)21:00~
ドラマスペシャル「遺恨あり」
を見てから考えることにする。
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by top-bluediamond | 2011-02-26 15:55 | スピリチュアルな散歩道